発達障害者の私は大人になってからも、何度も共感性の欠如を指摘されたことがあります。
でも、共感性の欠如ってそんなに悪い事でしょうか?
だってそうは思いませんか?世の中には辛い思いをしている人が一杯います。
発達障害者の様な純粋さや素直さと共感が掛け合わされたら精神が持ちませんよね。
だから共感性の欠如は、自分を守る為なのです。
でも、私たち発達障害者は共感性が欠如していても、周りの人を思いやって共に前に進む事が出来ます。
この記事が共感性の欠如で悩む方が前に進むために、必ず役立つと思っていますので、是非最後まで読んでみてください。
発達障害の共感性の欠如には意味がある
発達障害で大人な私は、一般的に言う共感性の欠如の特性を持っています。
そんな、私が共感性の欠如が自分を守る為だと思う事には理由があります。
共感性の欠如って悪い事だけ?
共感性の欠如があると言っても私たちは人間です。
親や兄弟などが亡くなったらとても辛いですよね。
もし友達の家族が亡くなって、私たち発達障害者に共感性が多くあったらどうなりますか?
自分の家族が亡くなったのと同じくらい悲しくなりますよね。
発達障害者が世界中の人に共感したら
大げさな話ですが、世界中の人の感情に共感したら、毎日のように家族が亡くなった辛さを味わう事になります。
そんな事に耐えられないですよね。
だから共感性の高い事は良い事ばかりではないのです。
発達障害の共感性の欠如は自分を守る為
私は、素直で純粋な発達障害者に共感性の欠如があるのは自分を守る為だと思います。
共感する事は大切な事です。
でも、発達障害の私は職場の数人の同じ部署の人に共感したら、精神的に辛くなる自信があります。
自分を守るために共感性が欠如しているんだと思うと、気持ちが楽になるはずです。
これは、思い込みでもなんでもない事実なのですから。
発達障害者の私が思う共感の本当の意味
皆さんは共感ってなんだと思いますか?
同じ感情を味わう事でしょうか?
私は国語の教師ではないので、本当の意味は分かりません。
でも、私は相手の為を思って同じ出来事を一緒に味わう事だと思っています。
そこで、思うのは私たち発達障害者は共感性が欠如しているのではなく、共感の形が違うのでは?という事です。
共感性の欠如は共感の種類の違い?
確かに私たち発達障害者は、怒ったり泣いたりを相手に合わせてできなかったり、つい冷たい言葉を言ってしまうかもしれません。
でも、本当に大事にしたい共感が大人で発達障害の私にはあります。
それは、相手の為を思って話を聞き、相手の為を思って、なにかを伝える事です。
もし相手が、すごく悲しんでいて自殺しようと思っている時に、「悲しいよね、でも私は死ぬより一緒に色々な楽し事をしたいな」という事は立派な共感です。
同じ出来事を”共”に”感”じる事は肯定ばかりする事ではないと私は思うのです。
共感性欠如の自覚があるならまずは同意
相手の為を思って話を聞き、相手の為を思って、なにかを伝える事にも注意点はあります。
それはまずは同意する事です。
なにを言うにしても一度は「そうだね」と同意はしておきましょう。
共感性の欠如を乗り越えた先にある物
私は同じ感情になるだけが共感ではないと思っているのはすでに書きました。
それは、私に共感してくれる人も同じなはずです。
何か愚痴をこぼして「でもこうじゃない?」と言われたら素直に受け取りたいと私はいつも思っています。
私の味方でいてくれる人も、きっと私の為を思って”共感”してくれているはずです。
”共”に色々な事を”感”じてつまり共感して、お互いを補っていける様になりましょう。
最後に
この記事を読んでいる方の頭に、今まで気づいてなかったけど、毎回共感してくれていた大事な人の顔が浮かんでいるといいなと私はこの記事を書きながら思っています。
私たち発達障害者には共感性の欠如があるかもしれません。
でも、それは自分を守るためであり、本当の共感をする為に授かった物です。
本当の共感を理解してくれる人ばかりではないかも知れませんが、共に進んでいける人はきっといるはずです。
まだ、その人が見つかっていないなら、これからは明るい未来ですね。
だって、そんな素晴らしい人と出会える未来が待っているのですから。
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